どうも、年末年始でベトナムのホーチミンに旅行に行っていた節約系ミニマリストのゆるいてんちょうです。
元旦に私が最初に向かった場所はベトナム戦争証跡博物館でした。
年始から戦争資料館に行くというのは、なかなか重いですがベトナム戦争とその後についての理解が根本的に間違っていたことが分かり、大変有意義な時間となりました。
私のイメージとしては、
①ベトナム全土で北(共産主義派)VS南(資本主義派の戦いがあり、前者をソ連中国、後者をアメリカが支援した。
②ジャングルに隠れてのゲリラ戦をしてくる北に対して、アメリカは枯葉剤とナパーム弾で森を丸裸にして対抗、戦争を有利に進める。
→そのため枯葉剤はベトナム北部にまかれたと思っていました。
②戦争が長引くにつれ、アメリカで戦争反対の動きが強まり撤退を決定。
でも、全然違いました。
ざっくりとしたベトナム戦争前後の流れ
①戦前、ベトナム、ラオス、カンボジアはフランス植民地だった
②日中戦争の時にアメリカとイギリスは、ベトナムを経由して中華民国の蒋介石に支援物資を送っていた(俗にいう援蒋ルート)
③それを遮断するために日本軍はベトナムを占領(仏印進駐)
④太平洋戦争後日本撤退&フランスがまた植民地支配に戻ってくる
⑤フランスからの独立を求め第一次インドシナ戦争勃発
⑥ベトナムが勝利し独立。その際に共産主義派反フランス派の多い北と資本主義派親フランスの派の多い南部とにいったん分かれておいて、落ち着いてから、1956年にヴェトナム全国統一選挙を行うことが定められた。
→普通に選挙をしたら対仏戦争で活躍した北の共産主義者が選挙に勝ち、共産主義の国ができる。→そうなるとドミノ倒し的にラオス、カンボジア、その他東南アジアが共産主義国家になってしまうという心配がアメリカにはあった。
⑦アメリカは、協定に参加せず、統一選挙を拒否し南に傀儡政権ベトナム国を存続させた。
⑧その傀儡政権のトップに反共産親米派キリスト教カトリック派のゴ・ディン・ジエムを置いたのだが、こいつがクソで、仏教徒が8割を超えるベトナムにおいて仏教徒を迫害するなど独裁者として暴れまくる。こいつがクソ過ぎて南の国民はイライラ。
⑨南ベトナム内に、南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front、略称はNLF)を作る→ジエム政権側はベトコン(ベトナムの共産主義者)とこれを揶揄したが、別に共産主義というわけではなく、反政府の組織
⑩南ベトナム内でジエム政権&アメリカ VS NLFの内戦が始まる。
アメリカはクーデターを南ベトナム軍に起こさせてジエムを殺す。でもクーデーター起こした奴がまた独裁→クーデターで次のやつを~がループしてしまう。
NLFを中国、ソ連、北ベトナムが支援
⑫中国、ソ連、北ベトナムは直接南を攻撃をしてきたわけではないが、いちゃもんをつけて、北ベトナムにアメリカ軍は空爆を開始する。でも、北に対して地上戦を一度もしていない。(あくまで南ベトナム内での政府と反政府の内戦)
⑬NLFは普段は農民だが、夜になると兵士になり森から神出鬼没に表れゲリラ戦を展開。政府側、アメリカ側の被害が増える。韓国軍など他の資本主義国もアメリカを支援。
⑭ただの農民なのかNLFなのかの区別は全くつかないので(別に軍服を着ているわけではない)、NLFではない普通の農民もバンバン殺してしまう→残された家族や友人の一部がNLFに入りさらにNLFは拡大し、政府&アメリカの被害はさらに増える。
⑮サイゴン市(現ホーチミン市)周辺などゲリラが隠れている森に対して枯葉剤をまきまくる。枯葉剤と言っても強力な農薬でしかないのだが、成分にダイオキシンが含まれてしまっており(当初はダイオキシンの毒性について分からなかった)大量の障害児が生まれることになる。
枯葉剤のおかげで戦争はアメリカ&南ベトナム政府の勝利になると思われた。
⑯旧正月であるテトの日に、テト攻勢という大規模広範囲にわたる一斉攻撃を北ベトナム&NLFが実行。NLFとして6万7,000人以上が参加して、5万8,373人が戦死したと言われる玉砕覚悟の突撃であり、アメリカ大使館を占拠するなどし、もうそろろ戦争が終わると思っていたアメリカ国民は衝撃を受ける。
⑰正直、アメリカ国民にとってアジアの一国であるベトナムが共産主義国家になろうがどうでも良いのに、無駄に戦死者だけ増えていくことから大規模なベトナム戦争反対の動きが広がる→アメリカ撤退。その前に中国とは裏交渉をして、中国をベトナム戦争から手を引かせることに成功。北ベトナムの支援国はソ連のみとなる。
⑱はしごをはずされた南ベトナムに対して、こちらも中国の支援がなくなったNLFと北ベトナムがそこから数年戦い、ホーチミンを陥落させ終戦。
⑲もともと共産主義ではなく、反政府組織NLF主体だったはずが、テト攻勢でNLFの9割が死んだこともあり、北ベトナムがベトナムを統一し今の共産主義国家であるベトナム共和国に至る。
⑳稀代の独裁者ポルポト率いるカンボジアとも衝突し、カンボジアベトナム戦争始まる
(原始共産主義をかかげ、文字読めたら殺す、眼鏡をかけていたら殺すくらいの勢いで知識人中心に国民の25%が虐殺された。医者すら殺します。知識人の消滅によりポルポト後の発展が遅れた)
㉒ソ連の支援が続いている&ベトナム戦争で鍛えられ、兵器もたくさんあるベトナム軍がカンボジアを圧倒し、新ベトナム政権をカンボジアで作る。ポルポトは西のジャングルに潜み、ゲリラ戦を継続。
㉓カンボジアを支援していた中国がベトナムに侵攻。中越戦争始まる。
㉓ポルポトはタイとアメリカからの支援をもらって、ベトナムとの戦争を続ける。
アメリカはベトナム戦争の恨みから、ベトナムよりはるかに危険で国民を虐殺しているポルポト派の行動を黙認、支援を続ける。
㉔冷戦終結に伴い、中国、カンボジアと停戦合意。
という感じで、ベトナム戦争終結の1975年から15年間カンボジアや中国と戦争を続け、そのためソ連以外のすべての国から支援をもらえない状況になり、貧しい国となる。
しかし、冷戦終結後に中国の改革開放路線をまねした「政治的には共産主義、経済的には資本主義」であるドイモイ政策が成功し、近年急激に発展してきた。
最初の段階でアメリカが統一選挙に反対しないで、選挙により共産主義国としてのベトナムが早期にできていれば、ポルポト政権などインドシナ半島を混乱に陥れることが無かったのではないかと思う。
ただ、これは結果論でしかないので当時の状況であれば、ベトナムの共産主義国家化はアメリカとしては認められなかっただろうな~
結局、アメリカも大損をこき、だれも得しない戦争だったのかもしれない。
同じようなミスを中東でも、もっと大きなミスり方でやってしまった点もアメリカの悲劇だ。
などということをその場でググりながら4時間ほど博物館を見て回りました。
ちなみに、ホーチミンの空港に着陸する10分くらい前からホーチミン郊外を上空を見ていて、森の木々がきれいにまっすぎに整頓されて生えているのが見えました。
これはホ―チミン郊外にまかれた枯葉剤で森林が破壊され、その後木材として使いやすいタイプの種類の木のみを人工的に植えていったせいだと考えられます。
それと、枯葉剤の影響や戦争でのけがで障害をおった人たちについて、昼間は見かけることは無かったのですが、帰りの日に朝の4時台に公園でバスを待っていると、そのような方々を車いすに載せて散歩させている家族を何組か見かけました。
観光地でもあるので、昼間に散歩させると観光客から心無いことも言われるかもしれませんしね。あと単純に昼間は暑いので皮膚が弱いと体調崩すし。
そういう点でもいまだに影響の残る戦争でした。
なかなか日常でベトナム戦争について詳しく調べようという機会はないので、今回の訪問が良い機会となりました。
2019/1/4記事作成