どうも、趣味の一つが「宗教」ですけども、どの神も信じてはいない、節約家ミニマリストのルパン座3です。
日本仏教の各宗派の考え方の違いなどは、わりと説明できる方だと思いますし、
国内海外問わず旅行の時は、宗教遺跡に立ち寄って、その歴史や他の宗派との違いを考えたりするのが好きです。
古今東西、色々な宗教色々な宗派があり、それぞれ良い点、悪い点いろいろあるとは思いますが、私はあまり祈る系のものは好きではありません。
それは祈ること自体にあまり意味がないと思うからです。
祈ってる暇があれば家の掃除でもした方がよっぽど何か見えてくるのではないだろうかと思うからです。
もしくは祈ってる暇があれば、その宗教の教義について信者でみんなで討論会をするなど、アウトプットをして理解を深めていく方が、有効だと思うからです。
だから無になって座禅を組む只管打坐も意味あるのかな~と疑っています。
もちろん教義を覚えるために、実際に声に出して唱えながらもしっかり考えながらやるのであれば意味があるかもしれませんが、何も考えずに意味も特に深く考えずに、ひたすら般若心経を1日100回唱えたとして、滑舌が良くなる程度しかご利益はないような気がするのですなのです。
例えば、般若心経を自分なりに調べて自分なりの解釈を毎日考えるとか、そういう日々アップデートしていくような動きが大事なんだろうと思います。
というわけで、私は何か、祈るという行為はあまり好きではないというお話です。
真っ先に断捨離すべき行為の一つだろうと思います。
もちろん数十秒で終わる程度のものであればいいとは思うんですが、あんまり時間をかけるのもどうなんだろうなとは思いますね。
なので、1度本気のイスラム教徒の人に1日5回もお祈りするのはどうなんだろうか?その暇があればコーランを1日30Pずつ読み直すとかのほうが良いのではないかという質問を、いつもしてみたいとも思うのですが、そういう舐めた質問をして、ぶん殴られそうなので怖いです。
まあ、個人的には1日2時間祈る暇があれば、ブログの記事でも2本くらい書いたほうが、考えもまとまるし、広告収入も発生するし良いと思うんだけどね。
2019年3月16日記事作成